*** ハナコノ ***

  「誰か起こせよ・・・」

 暗く静まり返った教室で彼は憮然と呟いた。

 遥か遠くから時折車の走る音が微かに聞こえる。

  一学期の期末試験も終わり気が弛んでいた。祖父の容態が悪化し、家に帰っても重苦し
 い空気が流れているのが嫌だったということもある。だが、恐らく最も大きな原因は、昨
 日友人が帰りに机で眠りこけていたのを放置して帰ったことだろう。仕返しされたのだ。


  彼、望月硬平は好奇心に乏しい青年だ。落ち着いていて堅実、やらなければならない事
 だけを黙々とこなす。人から強く勧められたり、頼まれたりしない限り能動的に何かをす
 るということがあまりない。なぜそんな性格になったのか、ときたま自問自答してみるが、
 これといった原因らしきものは思いつかなかった。父も祖父も無趣味な朴念仁であること
 を考えると、そういう血筋だということだろう。別段彼自身それを不満に思っているわけ
 でもなく、日々平穏に生きてきた。

  3ヵ月ほど前、彼が高校に入学してすぐの頃のこと。それまで彼の周囲には居なかった
 風変わりな2人に出会った。一つ上の学年の先輩らしいその2人は双子の姉妹だった。双
 子が珍しかったわけではない。その2人の言動、テンションの高さが岩や樹木のように静
 かに生きてきた彼を圧倒した。姉妹は新しい部活動を設立するための部員勧誘と称して、
 手当たり次第に新一年生に声を掛けていたのだった。結論から言うと彼はその部活動、都
 市伝説研究会に入部した。都市伝説になど興味は無い、それがなんなのかも良く知らない
 彼だったが、名前を貸してくれるだけでいいと頼まれてそれに応じたのだった。

  その後都市伝説研究会は無事規定の人数を揃え設立する事ができたようだが、彼は一度
 として活動に参加したことは無い。当初の約束通り名前だけ貸している幽霊部員というわ
 けだ。


  さて、彼、硬平君がどういう人物かを軽く説明したところで話を戻そう。期末テストが
 無事に終わり、もうじき夏休みというこの時期。彼は授業後のホームルーム中に睡魔に襲
 われた。いつも共に下校する友人達が起こしてくれるだろうと思い、心地よい眠気に身を
 委ね・・・目が覚めたときにはもうじき日付が変わる頃という有り得ない状況に陥ってい
 たのだ。

 「見回りとかしないか?普通」

 普段知る良しも無い深夜の学校の静寂に気圧され、声に出して呟いてみた。当然それに応
 える声は無い。自嘲気味に微かに笑みを浮かべると、寝すぎたことで却って眠い体を起こ
 し、ずっと机に突っ伏していたために痛む節々に顔をしかめながら荷物を整理して教室を
 出た。

  廊下は教室よりも少しばかり明るかった。窓が多い分月明かりが差し込むのだろうか。

 そんなことを考えながら歩く。トイレの前を通りかかり、ふいに尿意を覚えた。目覚めて
 すぐに感じた不気味さなど既に忘れて用を足そうと、暢気に男子トイレへ入る。

  用を済ませ、水道の蛇口をひねり手を洗う。正面の鏡には薄暗がりに見慣れた自分の顔
 が映っている。何かあるはずの無いものでも映ってはいないかとしばし鏡を見つめるが、
 おかしなものなど映ってはいない。当然だ、と再び自嘲。しかし遠くから話し声のような
 ものが聞こえ、その笑みも消える。音は少しづつ近付いてくる。近付くにつれてそれが話
 し声と足音であることがはっきりとしてくる。今が昼間なら校内のいたるところで聞くこ
 とのできる物音だ。

  超常現象の有無を真剣に考えた事は無かったが、どちらかといえば彼は否定派だ。近付
 いてくるのが生身の人間にせよ、幽鬼物怪の類にせよ、発見されれば面倒なことに変わり
 は無い。そう考え息を潜めて廊下の様子を窺う。人数は少なくとも2人はいるようだ。男
 の声と女の声が聞こえる。女の声はやけに陽気で、静まり返った校舎には相応しくないよ
 うに思えた。そして、そう思ったことにすぐに納得する。先ほどから聞こえていた無闇矢
 鱈と楽しそうな女の声は同じ声が複数同時に聞こえる。聞いたことのある声、彼をよくわ
 からない部活に勧誘したあの双子の声だ。もうかなり近付いている。会話の内容も聞き取
 れる。どうやら都市伝説研究会に所属する彼以外の4人が部の活動として深夜の学校に忍
 び込んできたようだ。あの2人ならそれも不思議には思えない。

  彼も一応はその研究会の一員である。部員全員がここにいるということがなんだか可笑
 しく思えて苦笑。

 「ここのトイレだよー」

 「女子トイレに入ってもいいのかなぁ・・・」

 「いーじゃん、誰もいないんだし」

 「その花子さんとやらがいるんじゃないのか?」

 聞こえてくる会話から、彼らがトイレの花子さんを調べに来たということがわかった。か
 なり昔に流行ったという小学校の女子トイレにまつわる怪談だ。

 「花子さんって、小学校のトイレにいるんじゃないの?」

 「見たって話があるよ、もちろんそんなはず無いけど、火の無いところに煙は立たないん
  じゃないかなーって。何かしら噂の原因はあるはずだよ」

 「わざわざこんな時間に学校に忍び込む意味があるのか?」

 「いーじゃん肝試しってことで」

 「そゆこと」

 都市研の面々が壁一枚を隔てた隣、女子トイレに入っていく。無視してさっさと帰ろうか
 とも思ったが、不用意に物音を立てては怪異の一端と思われてしまうかもしれない。

 「はーなこさん、あっそびましょっ」

 コンコンとノックをする音。暗さと静けさとが、水中のように音の伝達を良くするのだろ
 うか。そんなことを独り想う。

 「はいってまーす、あはは」

 「そんなことを言ったのではもし本当にいたら出るに出られないだろう」

 「僕もそう思う。祟られても知らないよ」

 深夜の学校の、よりにもよって幽霊が出るという噂のトイレだというのに彼らは実に楽し
 そうだ。先ほどまでの静まり返った空間より余程異様な気すらした。


  しばらくの後、満足したのか彼らは帰って行った。改めて自分の置かれた状況に苦笑を
 浮かべながら、硬平はようやく男子トイレを出た。

  だが、ほぼ同時に女子トイレから出てきた女子生徒を認めて動きが止まる。都市研の面
 々は既に立ち去ったはずだ。ならばこの女子生徒は一体?あまりの事に動作と共に思考も
 停まる。

  向こうも驚きの表情を浮かべてこちらを見つめている。見たことの無い生徒だ。そもそ
 も制服が違う。この学校の制服はブレザーだが、彼女が着ているのは誰が見てもわかるオ
 ーソドックスなセーラー服だ。

 「アンタ誰よ」

 女子生徒は驚きから立ち直るとムッとした表情でそう尋ねた。

 「幽霊?」

 その応えは彼女の問いに答えたものではなく、思わず口から漏れた言葉だった。

 「何言ってんの、アンタ生きてるでしょ。それともなに?私が幽霊かって訊いてんの?先
  に質問したのは私、質問があるなら答えてからっていうのが礼儀でしょ」

 そう馬鹿にしたような顔でまくし立てる女子生徒は、長い黒髪に透き通るような青白い肌
 に妖しい美貌。この真夏に冬服というのも怪しい。元気に話してさえいなければすぐさま
 幽霊と断定したくなるような風貌だった。月明かりに照らされた廊下が、心なしか先ほど
 より蒼い。

 「望月硬平」

 状況に適応したわけではないがとりあえず正直に答える。すると彼女は今度はとても嫌そ
 うな顔をした。

 「もちづき〜?」

 質問をしておいて素直に応えてみればこれだ。まずます彼の幽霊のイメージからかけ離れ
 ていく。やはり幽霊というわけではないのだろうか、さすがの彼も些か好奇心を覚えた。

 「君は?」

 夜更けの学校で出会った幻想的な美少女。彼女は少し考える素振りを見せてからもったい
 ぶった様子で口を開いた。

 「私は・・・トイレの花子さん、ってことにしておくわ。さっきの子達が言ってたの私の
  ことだろうし」

 噂の火元は彼女ということか。しかし彼女が何者なのか、その答えにはなっていない。

 「どこの生徒?」

 その至極当然と思われた問いに、彼女は明らかに不機嫌な表情を浮かべた。

 「ここよ。文句ある?」

 いちいち要領を得ない。彼の訊き方も悪いのだろうが、彼女がこの学校の生徒であるとし
 ても、何故わざわざ他校の制服、それも冬服を着て深夜の学校に潜り込んでいるのか。

  見下したような態度の自称花子さんを見つめながら、彼は色々と合理的な理由は無いか
 と考えたが、それもすぐに諦めた。どうでもよくなったのだ。

 「まぁいいや、君も用が済んだら早く帰ったほうがいいよ」

 そう告げて脇を通り抜けようとした。

 「ちょっと、待ちなさいよ」

 そう言って彼の腕を掴んだ花子の手はゾッとするほど冷たかった。全身に悪寒が走り頭で
 はなく魂で理解した。この子は生きていないと。

 「人と話すなんて久しぶりなんだから、もうちょっと付き合って」

 嫌な汗をかいた。明確な言葉ではないが様々な思考が浮かんでは消えた。どれも心地の良
 いものではない。

 「何よ、もしかして私が怖いの?」

  幽霊が怖いのは何故だろう?少なくとも彼女は外見に恐ろしい所は一切無い。むしろ月
 明かりを浴びてとても美しい。恨みつらみを身にまとったおぞましい姿などではなく、幻
 想的で、ともすれば見とれそうになるほどだ。しかし敢えて言うならそれが怖かった。魅
 入られ、取り殺されるのではないかと。死なないまでも自分が喪われるのではないかと。

 「男のくせに、情けないの」

 だが、ふふっと笑う彼女の様子はごく自然で、昼間に出会っていたなら決して幽霊だなど
 とは思わなかったかもしれない。いや、事実触れられるまではそうは思っていなかったは
 ずだ。

 「何が望みなんだ?」

 知りたかったわけではない。ただ、一刻も早く解放されるために、まずは要求を聞く事だ
 と考えた結果だ。

 「さっき言ったでしょ、私の暇潰しの話し相手になりなさい。この学校から出られないか
  ら夜は暇で暇でしょうがないの」

 「・・・」

 嘘をついているようには見えなかった。

 「わかった、じゃあその辺の教室に入って座ろうか」

 硬平は腹をくくる事にした。


  薄暗い教室。視界は闇の色の黒ではなく、墨を薄めたような青で染まっている。月の光
 というのは青いのだろうか?窓から見える黄色い月を見ながらそう思った。

 「で、硬平。アンタは何でこんな時間に学校にいるの?さっきの子達の友達じゃないみた
  いだけど」

 確かに友達ではない。同じ部会に所属してはいるが彼を勧誘した双子以外はろくに名前も
 覚えていない。彼女の問いには、嘘をつく理由も無いので、居眠りして起きたらこの時間
 だったと正直に答えた。

 「あっはは、馬鹿みたい。誰も起こしてくれなかったの?友達いないの?」

 「昨日友達が寝てるのを放置したから多分仕返しされたんだと思う」

 彼女はとても気安い様子で話しかけてくる。まるで良く知った友人に対するように。

 「やっぱり馬鹿ね、うん。どうせ彼女もいないんでしょ、甲斐性無さそうだし」

 「まぁ、いない」

 「好きな子とかいないの?アンタみたいのって、どうせ変に高望みして密かに片想いなん
  て続けてるんじゃないの?」

 「そういうのも無い」

  もう不気味さや恐ろしさは一切感じなくなっていた。彼女の人懐こさのせいだろうか。

 多少面倒くさいな、とは思うものの幽霊であることは置いておいて女の子と気安く会話を
 するのは楽しくもあった。

 「君は本当に幽霊なの?」

 思い切って尋ねてみた。どういう反応をするかはあまり考えていなかった。

 「そうよ。・・・悪い?」

 少しムッとしたような表情で彼女は応えた。しかし本当に気分を害したというわけではな
 さそうだ。

 「なんかこうして話してると全然そんな気がしないから」

 「まぁね、私も相当長いこと幽霊やってるし。制服も校舎も新しくなっちゃって、世の中
  も随分変わったものよね。あーあ、もっと生きてたかった」

 つまり彼女の着ている制服はこの学校の旧式の制服というわけだ。制服が変わったのはお
 よそ二十年前だと聞いている。校舎も三十年程前に一度、更にも昔に一度改築しているは
 ずだ。単純に考えて彼女は三十年以上前から幽霊をやっていることになる。

 「ずっと学校にいたの?」

 「昼間はそれなりに面白いわよ。図書室の本は読み放題だし、誰も私に気付かないけど色
  んな会話は聞けるし。あー、でも高校生の会話なんて実際何年経っても大して変わんな
  いわよね。ただ、テレビとかゲームとか、随分面白そうなものが増えたみたいでイラつ
  くわ。アンタ、ゲームってやる?」

 「まぁ、それなりに」

 「じゃあさ、今度持ってきなさいよ」

 「はぁ?」

 30年以上昔の幽霊がゲームをやりたいと言う。あまつさえ持って来いと命令する。

 「あ、もしかしてあれって持ち運べる大きさじゃないの?」

 「無理」

 面倒なので嘘をついた。そもそも、貸すとなればまた遭わなければいけなくなる。彼女は
 さっき、昼間は誰も自分に気付かないと言った。ならば会えるのは夜という事になる。

 「あっそ、ケチ。じゃあ代わりにまた来なさい。特別に私の話し相手として認定してあげ
  るわ」

 迷惑にも程がある。内心思っていることはともかく、今さっさと帰らせてもらうために大
 人しく了解した。

 「素直でよろしい。それにしても相変わらず・・・って、違ったわ、はぁ、ホント、何で
  私ばっかこんな目に遭うのよ」

 急に怒り出す花子、しかも矛先を向けられる。なんで自分がこんな目に遭うのかとうんざ
 りした思いに駆られる。

 「アンタに当たったってしょうがないんだろうけど・・・いや、無関係でもないわね。う
  ん、話し相手から下僕に昇格してあげるわ、有難く思いなさい」

 いつの間にやら下僕扱いである。生きてる頃からこんな性格だったんだろうか?どちらに
 せよ先ほどから彼女の言っている事は要領を得ない。

  ふと、時計を見ると短針が随分と進んでいる。

 「俺、もう帰んないと」

 「・・・あっそう。いいわ、帰りたいなら帰りなさいよ。その代わり明日も来ること。い
  いわね?」

 「約束はできないけど」

 素っ気無く答える。答えてからしまったと思った。ここはいい気分にしてさっさと帰らせ
 てもらうのが正解だっただろう。だが、怒り出すかと思った彼女が、急に悲しそうな顔を
 した。

 「悪かったわね、今日はちょっと、久しぶりに人と話が出来て嬉しくて・・・ちょっと、
  はしゃぎすぎたかもしれないけど・・・うん、約束はしてくれなくていいけど・・・で
  きればまた来て欲しい・・・かな」

 一変したしおらしい態度。幽霊というのは寂しいものなのかもしれない。誰にも気付いて
 もらえず、話す事も出来ず、みんな彼女とは無関係なところで笑い、泣き、そしてこの学
 校から去って行く。

 「・・・考えておくよ」

 つい、そう言ってしまった。

 「な、何よ!別にアンタじゃないと駄目ってわけじゃないわよ?そこのところ勘違いしな
  いようにしなさいよ」

 言葉とは裏腹に彼女の表情は、判り難いが本当に嬉しそうだった。余計な事を言ったもの
 だ、その思いが今夜3度目の苦笑を浮かべさせた。


  彼女は校門まで彼を見送りに来た。教室からここに至るまでも、あれこれとまくし立て
 ては勝手に怒ったり笑ったりしていた。久しぶりに話す相手に出会えて嬉しかったという
 のは本当だったのだろう。

 「約束、守りなさいよ」

 彼が門から一歩出ると、彼女は拗ねた様な表情でそう呟いた。

 「約束はしてないけど、考えておくよ」

 振り返らずにそう答える。

 「私は昼間も学校にいるんだからね、会いに来なかったら実力行使に出るわよ」

 「・・・」

 もしかしたら、こういう状況をとり憑かれたと言うのかもしれない。

 「わかったよ、またな」

 そう言って背後に手を振って見せると、そのまま歩き出した。数歩進んだところでちらり
 と振り返ったが、もう花子の姿はそこには無かった。


  翌日、完全に睡眠時間の狂ってしまった彼は眠い目をこすりながら帰りのホームルーム
 を迎えていた。教師の話が終わり、友人達が帰り支度をしている。

 「おい、硬平、帰んぞ」

 「ん・・・」

 いつも家路を共にする友人2人に声を掛けられる。だが彼は夜までどうやって学校に居残
 るか、その間どう暇を潰すか、そういったことを考えていた。

 「いっそ、一旦帰って忍び込んだほうがいいんだろうか・・・」

 「ん?何だって?」

 「いや、気にするな。悪いけど俺用事あるから先帰ってくれ」

  文句を言いながら友人達が教室を出て行く。他のクラスメートも次々と教室を後にする。

 「やっぱ・・・とり憑かれたかな」

 誰もいなくなった教室で、彼はそう呟いた。

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   ***このテキストは「金魚鉢#02」に掲載したものです***









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